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    あなたに褒められたくて

    • 2019.07.30 Tuesday
    • 11:36

    携帯電話の呼出し音で目が覚めた。隣で眠る妻が何かを察するように受話器を握りながら寝室を出て行った。

    私は布団の中で大きな深呼吸をしてから目を開け窓の外をぼんやりと眺める。7月11日、暦では初夏だというのに今日も雨が降るのだろうか・・

    外の明るさから、もう午前4時は過ぎている頃だろうかと考えていた。

     

    ゴルフをしていると時々「野球をされていたんですか」と聞かれる事がある。

     

    野球が好きだった父親は私が小学3年生になると自分が指導者をしている少年野球チームに私を入団させた。

    グローブを持っていなかった私は、皆とは違う型遅れの、父親の古く真っ黒になったグローブを手にし、いつも父親がそうしているように右利き用のグローブを右手に着け、左手でボールを投げてみた。

    父は黙って私に近づき「グローブが反対だ」とだけ言った。

    その日から私は古くて真っ黒なグローブを着けボールを右手で投げる練習をした。

    父方の祖母が生きている頃に、父親が幼い頃左利きのせいで、ずいぶん苛められた事を聞いた事がある。

    私の父親はボールを投げるときも私達を殴るときにも、いつもその大きな左手だった。

    私も物心ついた頃には左手を使って生活をしていた。血筋なのだろうか・・

    いまでこそ、「神の左」や「サウスポー」などと、むしろ左利きだからこそ評価されたり、イチロー選手のように敢えて左利きに変える人がいる時代になったが、左利きだというだけで苛められた時代があったのだ。

    野球を始めたその日から私は父親から今後一切左手を使う事を禁じられた。

     

    「貴様しっかりと腰を落とさんか」

    ギラギラとした大きな目で、ベンチから父が私達を睨みつけている。

    今ほどエラーをした1学年上のNは放心状態のような目で練習試合だと言うのに目を真っ赤にして涙を溜めている。

    内野を守る私達はマウンドに集まり目を合わせる。皆が覚悟を決めているように私には見えた。

    怠慢なプレーをした者は試合中であろうともベンチに戻った途端、顔が腫れるほど殴られて途中交代をさせられた。

    練習試合に負けると少年達はまだ昼間の暑さが残るグランドに、試合に出た者も出なかった者も全員が1列に正座をさせられ、鼻血がでるほど父に殴られた。返事が聞こえないと言う理由で又、更に私が殴られた。

    口の中に鉄を舐めた時のような血の匂いと、蛇口から水がぽとぽと落ちるように鼻血が私の膝の前の砂に落ちていく。

    私は只この時が一刻でも早く終わる事だけを願いながら砂に落ちた黒い血をぼんやりと見ていた。

    私はチームメイトへの申し訳なさと、他の父とは違う自分の父が恥ずかしくて野球が嫌いになっていった。

    私の父が嫌だと云う理由で他のチームに移る者もいたし野球を辞めるものさえもいた。

    コーチをする他の少年の親たちが私の父を囲んで神妙な顔で何か話している時もあった。

    そんな時にも父は黙ってただ真っ直ぐ前を見ているだけだった。

    試合で着用するユニホームさえも買って貰えなかった私は一人だけ学校の体操服に背番号を付け出場した。

    他のチームの子供達が笑うたびに恥ずかしくて顔を真っ赤にした事を覚えている。

    父親に野球を辞めたいと言う事さえ出来なかった意気地なしの私は、父がいない時に母にそれを懇願したしたりもしたが、母は

    「そんなに辞めたければ自分で話しなさい」とだけ言った。

    試合でエラーをすれば殴られる恐怖はチームメイトの少年達も皆同じだったのだろうが、不思議と練習中にミスやエラーをしても殴られた記憶はない。

    私達は上手くなりたいと言う気持ちよりも、殴られない為だけに必死で練習中のノックを受けていたのかもしれない。

    何度かここにも書いた事があるが、私たち兄弟は中学に入学する辺りまで父親に敬語を使って生活をしていた。

    それは尊敬とか敬意とかの類ではなく多分、子供心にトラウマの様な恐怖だったのだと思う。

    走行中、他の車が横から割り込んだというだけで相手の車を止め相手のドライバーを引きづり出している姿を私達家族は何度も見てきたし(今で言うアオリ運転だろうか)

    「貴様の教育が悪いんだ」

    と私達の前で母親を殴り蹴る姿を見てきた。

    私達は学校の用事や連絡があればそれを母に話し、父親の許可もまた母から聞かされた。

    私は父親と面と向かって話した記憶はなく、彼への不満も愚痴も全て母にぶつけていた。

    父親に「良治」と自分の名前を呼ばれるだけで少年は全身に緊張が走った。

    私の記憶する限りで私は只の1度も父親から褒められた事がなかった。

    中学に入ると同時に私は祖母との生活を選び、そして高校に入学する頃には一切父の住む実家に寄り付く事もなかった。

     

    リビングに行くと妻が相変わらず受話器を大切そうに持ちながら目を赤くして受話器の向こうの私の母に頷いている。

    私はシャワーを浴びながら故郷に向かう新幹線の始発に乗る事を考えていた。

    携帯電話で起こされてから6時間後に私は故郷の実家に到着した。

    親戚の叔父や叔母が、せわしなくテーブルの位置を変えたり荷物を移動している。簡単に会釈だけをして父のいる仏間に入った。

    数年ぶりに会う父親は私の知るその人ではなく、穏やかな顔で静かに眠る痩せた老人だった。

     

    私は葬儀屋との打ち合わせを母に命じられた。

    父のここ数年間におきた近況の事や、病院でので闘病生活の事を聞かれて、何ひとつ答えられなかった。

    知らない事が殆どで「後で母親に確認しておきます」と私は場繋ぎの返事をする事しか出来なかった。

    私はその場所を離れたくて、夕方、町にある小さな繁華街の方に歩いて向かった。

    外資系保険会社に勤めるMならもう呑んでいるかもしれないと思い携帯電話をかけてみる。

    やはり客とその繁華街で食事をしていたようで、待ち合わせの時間と店を決めた。

    約束の時間までは小一時間あったので、昔よく通った焼き鳥屋でビールを2本ほど呑んでから約束の店に向かった。

    店に入るとMはもう上機嫌で始めている。

    「どうしたの急に?いつ戻ったの?」

    父親が今朝死んだから一緒に酒でも呑もうかと思ったと話すと「ほんとに冗談ばっかなんだから」Mは大声で笑っている。

    自分の父親が死んだ日にまさか酒場に誘う男はいないと云う事か。

    何軒か梯子をした後にMがSの店に電話を入れている。時計を見るとそろそろ夜も明ける時間だ。

    「もう店終いしてるだろ?」

    私の問いにMは大丈夫と声を出さずに笑った。

    普段きちんとタキシードを着ているNが、カウンターの灯りだけを点けて既に閉店した店で帰ろうと思っていたのだろう、普段着のまま待っていてくれた。カウンターの隣で眠るMを見ながらNは私のいつもと同じ昔話を笑いながら聞いてくれた。

    呑んでも酔えない酒を私はNと朝方まで飲んだ。

     

    葬儀屋との打ち合わせの中で、「大体何名位の方がいらっしゃいますかね」との質問に、私はそんな事が残された遺族が皆わかるものなのか?と逆に質問をすると「はい。皆さん大体・・」

    仕方がないので母親にそれを伝えると、仕事を定年してから20年弱の時間が経っている人の葬儀にそれほど大勢の人が来るとは思わないと言われた。母がいつかぼやいていた事を私は思い出した。

    子供の手では1度では持てな程届いていた年賀状が、父が退職した途端に数える程になった事。

    父が可愛そうだと独り言を言っていた事。

    しかも世の中は3連休の初日である。母が言った人数よりも少ない人数を私は葬儀屋に伝えた。

    葬儀屋も妥当な処だと思いますと苦笑いをしていた。

    ましてや、この小さな町で自分の気に入らない事があれば相手が誰であろうが、喰ってかかった人間の葬儀に来る人などいるのだろうかと息子の私でさえ考えていた。

     

    通夜が行われる朝、年老いた一人の老人が実家にやって来た。

    彼は仏間で眠る父を見るなり、父の顔を撫でまわしながら

    「堪忍してくれ、堪忍してくれ」

    と大きな声で泣いた。老人は自分が死にそうに困っていた時に父に助けられたんだと、その恩も何にも返せていないんだとまた大きな声で泣いた。老人の言う助けや恩とは多分金の事なのだろう・・

    父は宵越しの金を持たない人だったからいつも金がなかったのは子供の私でも知っていた。

    私達がまだ幼い頃、足の不自由な女性と家に晩御飯を一緒に食べに来て食べ終わると2人仲良く出ていった話を大人になってから聞いた事がある。きっと父はその女性の面倒を見ていたのだろう。

    父の退職金が全てなくなっていたと泣いて母が電話をしてきた時もあった。

    それでも母はその父を15年近く1人で介護し、火葬する前の棺桶から泣いていつまでも離れようとしなかった。

    通夜、葬儀と式場に入らない数の供養花と供物、弔電が届けられ、予定していた3倍以上の方々に線香をあげて頂いた。

    朝まで一緒に酒を付き合ってくれたNやM。IちゃんやK、飲み屋のHママまでが忙しい中を弔問に来てくれていた。

    そしてあの頃、父に殴られた少年達の顔もあった。本当にありがたいと思った。私には感謝しか出来ないが・・

     

     

    葬儀の終わった夜、私達家族は不思議な気持ちになっていた。

    あれだけ母や私達を怒鳴り、殴り、そして好き勝手に生きてきた父が、まるで何処かで違う人生を歩んでいたかのように、葬儀に訪れた人達から私達の知らない父の色々な話を聞かされた。

    父の人生が幸せだったかどうかは私には解らないが、私達の知らない所で多くの人達との深い関りがあった事だけは彼の人生の真実で、父に似てきたと言われる事を一番嫌がってきた私だが、もしポンコツ息子と鬼の様な父ではなく、出会い方や関わり方が違っていれば私も私達の知らなかったもう一人の父の姿を見る事が出来たのかも知れないと思った。

     

    人の人生とは皆そんなものかも知れないとぼんやりと考えていた。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

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